「漫画ガロ」のような絶版雑誌は、なかなか手にはいにくい貴重な雑誌です。
現在は持っている方も少なく、高値で取引される傾向があります。
当店では1冊1冊、現在の取引価格を基に査定させていただきます。
「漫画ガロ」とは、1964年から2002年まで青林堂が刊行していた漫画雑誌です。漫画雑誌は小学生から中高生を対象とした読者層に支持されることが多いですが、「漫画ガロ」は大学生など他の漫画雑誌と比較すると高い年齢層の読者に支持され、独創的な誌面と伝説的経営難の中で独自の路線を築き、漫画界に異才の人材を数多輩出してきました。
「漫画ガロ」は先見性と独自性で一時代を画し、独自の作家性を持つ個性的な漫画家たちの作風は『ガロ系』と呼ばれ、彼ら『ガロ系』作家の作風は、海外のオルタナティブ・コミックの作家たちと親和性が高いと言われています。
日本初の青年漫画雑誌「漫画ガロ」は、それまで貸本漫画の出版で知られていた編集者の長井勝一と漫画家の白土三平によって1964年に創刊され、題材や内容、物語のスケールなどの問題から連載する場所がなかった白土の漫画『カムイ伝』を連載の場とすることが最大の目的でした。また同時に仕事をする場を失いつつあった貸本漫画家の媒体提供と新人発掘のためという側面的な目的もありました。
1960年代のガロは白土三平の『カムイ伝』と水木しげるの『鬼太郎夜話』の2本柱で雑誌のページ数の多くを占め、残りのページではつげ義春、滝田ゆう、つりたくにこ、永島慎二などがレギュラー陣として作品を連載していました。
新人発掘にも注力していた「漫画ガロ」編集部である青林堂には、ほぼ毎日作品が郵送で届き、作品の持ち込みも多かったそうです。
1971年に人気漫画の『カムイ伝』の連載が終了すると、「漫画ガロ」の売り上げは徐々に落ち込み、当時の編集者は面白ければ漫画という表現に捉われないという面白主義なるものを提唱し、サブカルチャー雑誌として立ち位置を確立するも依然として苦しい状態は続きました。同じ時期にガロの触発されて手塚治虫が創刊した漫画雑誌『COM』は1971年に廃刊となっています。
1980年代には売り上げは3000部にまで落ち込み、作家に原稿料も支払えないほどの経営難でした。読者は一部の漫画マニア、知識者層、サブカルチャーファンのみなど限られることとなりましたが、それでもガロに漫画を持ち込む作家や新入社員には事欠くことはありませんでした。
1980年代にガロ編集長の長井がPCソフト開発会社を経営する山中潤に青林堂の経営を譲り、青林堂代表取締役社長に山中が就任し、長井が会長になり、1992年には編集長も長井から山中に変わりました。
『ねこぢるうどん』や『南くんの恋人』のヒットや映画のタイアップ企画などで単行本の売上が好調となり、本誌の売り上げもサブカルチャー情報を大量に掲載するなどで向上に持ち直しました。1993年には「漫画ガロ」創刊30周年を記念し、ドキュメンタリー映画『無敵のハンディキャップ』を製作。1994年には青林堂と経営母体であるツァイトとの共同で映画『オートバイ少女』を製作。メディアミックス展開を積極的に行い、売り上げは上がっていきました。
しかし親会社のツァイトの経営が悪化していき、1996年にガロの名物編集長であった長井が死去します。編集部内でもインターネットでのデジタル刊行に賛成する推進派と守旧派とに内部分裂し、大赤字を出す事態にまで発展しました。
青林堂社長である山中が不調となり体制が変わったことでそれまでの体制に不満のあった社員たちが保管してあった作家の原稿を持ち去り、青林堂編集部全員が辞表を送り集団退社するという事件があり、青林堂と親会社のツァイトは多大な風評被害を受けました。
この内紛騒動によって青林堂の親会社ツァイトは倒産、「漫画ガロ」は休刊へと追い込まれましたが、経営母体を他社が引き継ぎ、新体制で2000年から復刊しますが2001年半ばから月刊から隔月刊、2002年には季刊となり2002年10月号(通巻426号)最終巻号とされ、以来発行されないまま事実上の休刊となっています。
書名 | 漫画ガロ |
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書名カナ | マンガガロ |
著者名 | − |
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ジャンル | 漫画雑誌 |
出版社 | 青林堂 |
ページ数 | − |
サイズ | − |
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